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言葉はいかに人を欺くか:嘘、ミスリード、犬笛を読み解く | ジェニファー・M・ソール (著), Jennifer Mather Saul (著), 小野 純一 (翻訳) | 2024年書評18

ソール著の言葉はいかに人を欺くか(英タイトル:Lying, Misleading, and What Is Said: An Exploration in Philosophy of Language and in Ethics)を読みました。

最初から気がついていればよかったのですが、ソールは哲学の教授であり、さらに関心が政治話題(政治で言葉が扱われているか)のために内容は面白かったものの何回か心折れそうながらも読み切れた本でした。

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📒 Summary + Notes | まとめノート

嘘とミスリード

本書でしつこいなと思うぐらい何回も出てくる例にビル・クリントンがモニカルィンストンのスキャンダルの答弁での発言があります。

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  1. There is no improper relationship 不適切な関係はありません。

この発言から一般的な人の想定としては完全否定と受け取る人が多くいると思います。しかし実際は現在形を用いており、過去にそのような関係があったかどうかは発言からは明確にされていないものです。

クリントンは嘘はついておらずミスリードを誘う内容を発話していました。日本の国会答弁など見ても同じようなミスリードを誘うような、もしくは明確に回答していない会話が長々と続いていて飽き飽きとする人も多いと思いますが、世界中似たような事が行われています(もしくはアメリカではより高度に活用されているとも言える)。

そもそも嘘をつくとはどういうことだというと、トーマスカーソンは嘘を付く人は自分の言うことが間違いだと信じていなければいけない、と語ったなどソール自身が何度も過去の定義を引き合いに出して、それでは不満足であると判例をあげて定義を付け足し付け足しして練り上げていく過程が書かれています。

これがまさに哲学的なアプローチであり、偶発的なものはどうか?メタファーを使ったときはどうか?など読むのに根気が要されるほどです。

嘘とミスリードの区別に「言われていること」という観点から違いを見出そうとします。

嘘はミスリードよりも悪いのか?

なんとなしの考えとして嘘は意図的な要素が多くより悪意のあるもので、ミスリードは受け手の解釈が入る分悪意の要素は少ないだろうと考えられているようにも感じます。

本書では嘘とミスリードのどちらが悪いか論争もあります。例えば、ピーナッツを食べるとアレルギーが起こる人に対して下記のような言い回しをしたとします。

(嘘)いや、ピーナッツは入れていないよ。

(ミスリード)いや、君が食べても全く安全だよ。

これらは嘘もミスリードも善悪の差は無いように思えますよね。

こういった内容を昔の哲学者の解釈を加えながら論じていきます。(カントやアドラー登場)

著者は伝統的な主張に同意できないということで、代替案を用意しており、道徳性と絡めて、嘘かミスリードかを発言者が選択するときに道徳性を垣間見れるとまとめています。

感想

政治的な答弁で良く見る、なにか言っているようで何も明確に答えていない、というような発言に対して、嘘をついているのか、ミスリードをさせているのか、と定義づけしてその倫理的な良し悪しを考え直していくような本でした。

いやいやそんなの考えなくても…とは思いつつも何故このようなことを考えなければいけないのかと振り返ってみると、「言っていること」に対して思考をはせる必要がるケースというのは、問答して明確化できないような物事が殆どです。

言われたあとに「それってどういうことですか?」のように聞ける状況が無い事がこのような嘘かミスリードかという論争が必要になってしまうものであります。

日常や仕事などの現場にも似たような問題は存在しますよね。顧客や上司という上下関係の立場を利用して名言を避けるケースで含意を思考しなければいけないケースが多く存在します。

個人的には嘘もミスリードも発言者の倫理感は低く、解釈可能なレベルまで明確にできていない表現力の問題か、単純に欺瞞のケースが多いと感じます。その背景には時間的な制限などもありますが、最近では多くのSNSが発達し誠実さがあれば表現に時間を裂くこともできます。

裁判などの細かい事実が重要になるケースを除いてはミスリードなどを考えなくて良い時代にもっとなって欲しいものです。

本書で初めて知った犬笛という言葉は興味深く、例えばオバマ元大統領を「バラクフセインオバマ」とわざわざ本名で呼ぶ事でフセインを連想させるような方法が紹介されています。多くの政治キャンペーンでも使われており戦略的な言い方ですが、連想をさせる表現をして直接的に表現しないものの、そのように思わせるというような効果を狙ったものです。

哲学というものを思い浮かべると、ソクラテスの時代のイメージで、今のSNSで誰とでも繋がれなかった時代に誰かの言ったことを直接聞けないために自分でウンウンと唸り真意を考察するみたいな側面がある印象です。

哲学的な考え方をするとわかりやすさみたいな側面は削ぎ落とされ、精密さや周到さなどを重要視するために情緒的で長くなりやすいものに思います。

今のSNS全盛期に哲学という概念がある種自然と失われていき、誰でも考えを表明でき必要であればフルに説明をしようとできることがあります。概念としての哲学は失われてきても自然なものなのかもしれないなと時代として感じました。