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リー・クアンユー回顧録 上: ザ・シンガポール・ストーリー | リー クアンユー (著), 小牧 利寿 (翻訳) | 2023年書評104

シンガポール旅行前に勉強がてらに読んだリー・クアンユー回顧録下でしたが、今回は上巻の方をやっと読めたので書いていきたいと思います。

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旅行する前まではシンガポールは綺麗で急に発展した金融都市ぐらいにしか認識が無かったですが、その建国の父がどのように生き抜いて国家設立までの困難と戦い抜いてきたのか少し垣間見れた気がします。

下巻ではシンガポールがマレーシアから離れて独立しなければいけなくなった後の話ですが、上巻は戦前のイギリス統治時代にいかにイギリスが輝いて見えたか、そこから日本軍が侵略してすべてを破壊していく地獄のような世界の中で日本語を学び日本企業や英語を活かして外国軍の情報収集を行いつつも、ゴムを家で作り売りさばくなどのたくましい生き方が事細かに描かれています。

戦後にはイギリスが戻ってきたかと思えば今度は長期的な視点が欠如した短期任期の外国人が国をよくしようという意思が無い姿勢に失望し、政党を立ち上げて政権を奪取していき40歳に満たないリーダーとなり、その後共産主義勢力、マレーシア勢力、インドネシアなどの政治的な戦いに巻き込まれながら最終的に独立という選択肢しか残らなかった過程が上巻で纏められています。

このシリーズ本はシンガポールの若者たちに何もなかった所から今の国がどう建国されたのかという過程を伝えるために描かれており、本当にその時代時代の様子が事細かに表現されています。いかに小さな島国が隣国との軋轢に耐え忍びながらも活路を見出してきたのか。その中で国民のためを考え抜きリー・クアンユーが思いを伝えながら支持を集めたのかとてもおもしろい内容です。

戦時中の生き延び方や英国留学などパワフルで道を切り開いていく姿は語り継がれるものでしょう。共産主義の台頭の時代にシンガポール共産主義者と周囲に思われてしまい場面や、政党初期には共産主義の力を併せて政権を獲得したこと。その後どこかで切り離さなければならないそのメンバー達との葛藤は本当に読み応えがありました。

📒 Summary + Notes | まとめノート

日本版への序文

本書はもともと日本語にされることなど予想もされていなかったために日本語版の出版にあたりリー・クアンユーが加筆した文書から始まります。1999年に日本経済新聞私の履歴書にて連載が始まり、日本経済新聞から本が出版されることになりました。

日本は、第2次世界大戦後にいったん灰になりましたが、逆境や悲劇に立ち向かう特に工夫がうまれるとうリー・クアンユーの教訓の通り、1960年代まで回復の軌道に乗っていました。リー・クアンユーは日本を訪れる度に、不屈の精神、工夫する力、結束力に感銘を受けたと言います。

一方で、日本はアメリカのように不必要な部分をすべて切り捨てるアメリカのような大胆さが無く、その分だけ構造改革も時間がかかります。日本はシンガポールと同様に資源のない小国で世界に立ち向かわなければならなく、変革の時が来ています。

リー・クアンユーは日本から多くの事を学んできた一方で、率直に批判もしています。それは、戦争中の行為への謝罪に明らかに消極的な姿勢です。過去を生産し、将来への新たな一歩を踏み出すべきであり、日本の残虐な行為を批判しています。

この姿勢はとても的を捉えており、日本人として恥ずかしながら実感がある感覚です。いつかこの印象が変化して、より多くの尊敬を集められる文化に期待したいです。

突然の独立

1965年、シンガポールは突然とも言える立場に置かれます。

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リー・クアンユーは独立直前までマレーシアとの連合国家を狙い様々な活動を実施してきました。

シンガポールラジオスタジオでの記者会見時には記者から「今日の独立宣言に至るまでの経緯を説明して欲しいと言われ」マレーシアとの協力のために奔走し続けてきたがそれが叶わなかった思いから涙ぐむ一面も垣間見れます。

資源のない小国であり、周りをマレーシア、インドネシアというアジアの大国に囲まれる人口わずか200万人の国。さらにはマレー人、イスラム教徒という他の文化に囲まれた華人75%の人口であり、インドネシアは明らかな敵意も持っていました。防衛の拠り所であったイギリスは自国の維持に方向転換し、シンガポールの価値が希薄化。

希望であったマレーシアとの統合が叶わず、困難ばかりの状況に落ち着かない状態というのがシンガポールの始まりでした。

生い立ち

リー・クアンユーシンガポールテンビリンロードにある家に生まれます。父親には耳をつかまれ井戸の上に吊られたこともあったというほど逞しい家庭でした。先祖は中国の客家であり、ジャンク船に乗ってシンガポールに辿り着き、シンガポール生まれで華人のセオウ・ファンネオと結婚しました。その祖父母はシンガポールリー・クアンユーの祖父となる子供を生むと裕福になったために中国へ1882年に戻りましたが妻はシンガポール生まれであり知らない土地に行くことを拒み一人で中国へ帰りました。

祖父はラッフルズ学院で教育を受け、薬局の店員となり後にシンガポールとオランダ領東インド(現インドネシア)を結び船の事務長になりました。祖父は裕福でしたが、父親は金持ちの息子というだけで、リー・クアンユーは祖父を尊敬していたと言います。しかし世界大恐慌が始まると祖父が投資していたゴム農園はゴムの価格の暴落とともにうまくいかなくなり、それに伴いテロッククラウに移り住みます。

祖父は西ヨーロッパ社会にすっかり染まっており、英国人が船の上でいかに規律を守るのか、有能さなどをいつも語っていたそうです。その英国文化主義の影響もありリー・クアンユーの名前はクリスチャンネームをつけ、ハリー・リー・クアンユーと名付けました。

テレビも絵本は高価なものしかなかった幼少期は想像力を磨いた遊びをしており、またラッフルズ図書館で2週間無料で本が借りられることから図書館でいろいろ本を読んで過ごします。父親は賭け事を行い、ときに負けを取り戻すために母親の宝石を売りさばこうとして喧嘩していたそうです。家では両親を英語で話、祖父母とは中国語が混ざったマレー語、漁師の子供たちをは福建語混ざりのマレー語で話しており、中国語の学校へ行ったが大半の事がわからず英語教育の学校へ転校。

その後勉強を重ねトップの生徒しか入れないラッフルズ学院へと入学します。ラッフルズ学院はシンガポールトップの中学校であり、卒業生の多くは女王奨学金を受けてオックスフォード、ケンブリッジ、ロンドンなど英国の大学に留学し、医学、法律、技術などを学んできました。

あまり勉強をしなかったと言いながらも、数学と科学が得意であり英語の基礎もあったリー・クアンユーは成績優秀者の一人となり苦労すること無くトップ3になりました。面白いのが優秀であっても当時遅刻を3回するとむち打ちの罰があり、リー・クアンユーもむち打ちを受けましたが、振り返って考えても何も問題と思わなかったそうです。

ラッフルズ学院を卒業するときに留学も考えましたが当時戦況が悪くなってきておりイギリスへ行くのは見合わせ方が良いということでラッフルズカレッジに入学。そこで数学は一番を取ったものの英語と経済学は一番が取れず、クワ・ギョクチューという女子学生が一番であり、チューは後に妻となります。

ラッフルズカレッジにはマラヤのマレー人枠がありマレー人の団結力があることを学びそこには後に首相となったラザクや、政治活動で盟友となったゴー・ケンスイも居ました。

日本の侵略

1941年、ラッフルズカレッジの寄宿舎に居たリー・クアンユーは爆発音で眼を覚まします。ラッフルズカレッジの学生たちは故郷のマラヤの田舎に戻るなどで寄宿舎は数日でガラガラになりました。その後、日本軍は簡単にイギリス軍を突破し自転車で南下してきます。

コーズウェイ(マレーシアに渡る橋)を最期に渡って橋を吹き飛ばしたアーガイル、サザーランドハイランダー部隊の写真は翌朝の新聞に掲載され執筆時でも記憶に残っているものになりました。ある日自転車で家に戻るときにオーストラリア兵は落胆しており、リー・クアンユーが兵士に戦況を聞くと、「もう終わったよ。これをあげよう」と銃を渡され絶望を感じます。

家族は市街地の祖父の家へと非難し、その後数日で日本軍は街中へと侵入。ある時リー・クアンユーは小柄で剣先のついた銃を持った2ヶ月間体を洗わずに異臭のする兵隊に鉢合わせ、日本兵だと一瞬で察知します。春節の2月15日日本は市街地へと入り市街地は無法地帯とかしました。

アジア人の方が白人より優れていると言われたいた所、映画でばかにされていた技術力も無いと思われていた日本兵がいとも簡単にイギリス軍を破った姿は衝撃を与えました。白人が利己主義で臆病であることを見て取ったといいます。

日本統治が始まると、ある日華人青年グループが集められる部屋に荷物を取りに行くと許可をもらい離れると、そのグループは一掃されていたと言います。(6000人の華人青年を殺害)人間の命や生死に関わる決定がこんなに気まぐれに安易になされるとは、とても理解できることではありませんでした。慰安所の存在もその時しり、一方でレイプはそれほど頻繁に起きなかったと言います。シンガポールの最も近代的なビルの前に華人男性の首が置かれ警告文が表示されていたこともあったと言います。

通達を十分に理解できない事を恐れ、「優しいマンダリン」と書かれた本を買い、また日本語を勉強し、知り合いを通じて日本人のシモダカンパニーで働き始めます。また、日本軍報道部で英語の情報を集め日本人のジョージタケムラと共に働きます。そこで次第に戦況が悪くなる情報が誰よりも早く知りましたが、それを外部に知らせる事はできないため精神的に辛いものでした。食料が途絶えてきたときにはブローカーとなり、日本人に売ったり差し出したりしながら生き延びます。

その時には後の妻となるチューと共にゴムのりの製造を行い資産を築きました。

ある時、戦況が悪くなってきたためにシンガポールを出たほうが良いと思い休暇を取りマラヤの田舎を散策。戻ってくると要注意人物とされ尾行され始めたために脱出計画も中止します。ゴムのりの先行きが悪くなると今度は建設作業を行い、現金を手にしたらすぐに確実な勝ちのある品物に変えることや商売を変えていくことの重要性を学びます。

5月になるとドイツが敗北し、降伏したとニュースがあり8月6日に耳慣れない名前の爆弾が広島上空で爆発。15日に日本は天皇が降伏を伝えます。その後喜びのあまりはしゃいでいた市民を平手打ちする日本兵が居たもののイギリスに引き渡されるまで幸運にも規律は守られ、時には切腹する日本兵も居たと言います。

新しい情勢に適応して日本軍に役立つことを通じてこの機会を利用した人は財産をなした。日本軍は気高く振る舞おうとする姿勢はまったく見せず、重すぎる刑罰から犯罪を犯すものたちも少なかった。建設業者や賭博施設を経営した人たちは大儲けをしたし、日本軍が増刷するバナナ札は瞬く間に値崩れしたために英国の海峡ドルや宝石の値は高くなりました。

当時最も団結して抵抗していたのは中国国民党華人たちであり、民族意識を燃やして日本人に抵抗し、その後は英国、そして後にリー・クアンユーを率いる政党にも抵抗しました。

後に政府の官僚となるリムキムサンは日本人の憲兵隊が行った拷問を語り、若者が縄で吊るされ衰弱した所ムチで打ち続けられ亡くなり、その後も数日吊るしたままにされたこと。ホースで胃の中をパンパンにされた後に踏み潰され気を失ったこと。日本人の真の姿を見たと証言しました。

解放後のケンブリッジでの日々

日本統治解放後にリー・クアンユーは留学を決意します。留学までの間はチューとの関係を築き、船でシンガポールを出るときには涙しながら送られます。最初に行ったのはロンドンのロースクールでしたが街や学校に馴染めずある日ケンブリッジを見学しに行きます。そこに一目惚れしたリーはケンブリッジへ転校。ロンドン留学を取り持ってくれた教授には失礼をしてしまい迷惑をかけてしまったことを反省しています。

ロンドンで衝撃だったことは政治学のハロルド・ラスキ教授のマルクス社会主義理論でした。とても魅力ある話っぷりで多くの植民地支配下の学生を魅了し、多くの生徒は自国へ帰り不適切な政策に失敗し国家に損害を及ぼすことになりました。これは建国以前に社会主義の失敗例を多く見ることができた教訓となります。

その後チューもケンブリッジへ来れることになり二人はケンブリッジにて結婚し生活を始めました。学業への影響が懸念され教授からも心配されながらも、帰国したときに箔がつくということで一番になるために勉学にも取り組みます。最終的にイングランドで弁護士としての資格試験にも合格し帰国へと向かいます。

帰国時に共産主義勢力になる可能性があると当局からマークされていた事もあとになりわかります。これは当時ハンガリーなど共産主義の波が世界を変えており、シンガポールにおいても共産主義者たちが様々な混乱を巻き起こしていたことからリーを間違えて共産主義に染まっている可能性を考えての事でした。

シンガポール帰国から政権へ

帰国してからレイコックの法律事務所で働き始めます。休み無く働く一方で政治には不満だらけでした。シンガポールの現地選出議員はわずかで残りは英国からの任命議員であり市民とのつながりはなく選挙参加者も少なかった。レイコックは進歩党の正当員であり選挙活動もそこで体験することになります。

その後労働者がストライキなどをすることの弁護をする機会があり、政府職員のストライキなど当時のシンガポールやマラヤではストライキが多く行われていました。

シンガポールの大多数を占める華人社会に足を踏み入れたのは5.13事件からであり、華人学生が警官隊との抗争の後に逮捕された事件でした。英語教育を受けた者たちで構成される政治に対して、英語を知らない華人は社会の中で果たすべき役割を持てずに居る背景があります。

その後リーは人民行動党(PAP)を設立。その構成メンバーには後に不憫な人生を歩むことになる共産主義の代弁者のリムの姿も居ました。これは英語教育を受けたリーらのメンバーだけではなく中国語で話すメンバーが居ることで華人の支持を集める狙いでした。

リムチンシオンは演説がとてもうまく、選挙が終わる頃にはカリスマ的存在までのしあがり、シンガポール政界で注目を集める人物になります。

ジョンレイコックで働く中で対立政党として活動するリーはレイコックから良く思われず契約関係をパートナシップに切り替えてもらう事にします。

リムら共産主義者たちは問題を頻繁に犯すようになり、共産主義者の狙いが次第に見えてきて、それは植民地支配体制に対して人々の間に憎悪を生み出す事で問題を解決するための対話が目的に無いという事をこの後何回も思い知ることになります。

当時、中国が革命の機運が成功し世界で共産主義が注目を集めていました。特に中国語話者は中国語での情報しか無かったために、偏った情報を通じてまったくの別世界へと繋がります。このときにリー・クアンユーは英語を通じて世界を見る重要性を感じる一方で、華人たちの支持を失わないように中国語を猛烈に勉強し、子供を中国語教育である南洋幼稚園に居れ3人の子供は中国語教育を受けました。

1959年総選挙から政権獲得

1958年、共産主義の活動によりリムチンシオン、フォンスイセンはPAPのメンバーでありながらもチャンギ刑務所に勾留されていました。リーは彼らとの面会を続ける中で、彼らはPAPが政権を取らないといつまでも勾留が続くということでPAPの勝利を約束します。CUP(共産主義統一戦線)の中でもナイアは共産主義者に懲りてPAPに居続けたようなメンバーも居ました。

PAPは選挙に向けて公約にマラヤ連邦との統合を通じた独立、民主的で社会主義、非共産主義のマラヤを掲げ、ナイアは共産主義勢力の代弁者であったために当時は板挟み状態に合います。

選挙活動では、英語教育者たちが普段立ち寄らない汚い屋台、大きなネズミの居るような蒸し暑い現場を歩き回り演説を行います。結果として51議席中43議席をPAPが獲得。選挙民の90%が投票し明確な勝利となりました。

政権を獲得した一方で、党内に存在する共産主義勢力は懸念材料になりました。また政権交代時には前政権が予算を使い果たしてしまっており財政赤字が見込まれ、高い失業率など不安材料が多くあり、公務員の給与削減など苦肉の策を行います。

黄色文化の禁止や、子供たちの全員入学など共産主義者が活用していた人気取りの手法もときには活用し、大衆の支持を獲得する技術を共産主義社会から学ぶこともありました。

1965年の独立へ

政権を獲得し、今でも残るシンガポールの住宅開発公社(HDB)のシステムを導入して住民に住まいを提供するために建設を開始します。当時、汚職は至る所で残っており、この建設請負に関しても前国家開発相のオンエングアンから囁きがありましたが丁寧に排除していきました。

もともとマラヤとの統合を狙っていたリー・クアンユーはラーマン首相との関係構築へも精力を出します。

引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Tunku_Abdul_Rahman

ラーマンは東南アジアにてシンガポールブルネイなど前イギリス領の土地を統合する狙いもありイギリスとの交渉を長く続けながら、この3者間での外交が独立直前まで続きます。シンガポールに居るマラヤ共産党MCP)はラーマン(マレーシア)から見ても悩みのタネで、リー・クアンユー率いるPAPがMCPに勝つことでシンガポールと統合した際のメリットを訴えました。

一方でPAP党内には共産主義者たちが存在しており、その存在は息を隠しているものも含めすべての実態や信念がわからない状態でした。イギリスやマレーシアは共産主義は世界の情勢を乱す存在として捉えていたためにPAPは共産主義との決別を表明します。

当時共産主義者はPAPの内部に浸透してきてしまっており、また共産主義者の取り締まりに対してもシンガポールは独立していないために、シンガポールはマラヤやイギリスにマラヤはイギリスに取り締まりをしっかりして欲しいと考えていましが、各所は世論を考えると大胆に行動できないジレンマもありました。

これはWikipediaにもPAP Split of 1961と記録されている。

PAP split of 1961[edit]

Lim Chin Siong was Lee's main political rival and formed the Barisan Sosialis after his expulsion from the PAP.

!https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/d/d3/Lim_Chin_Siong_in_1950s.jpg/120px-Lim_Chin_Siong_in_1950s.jpg

Lee took measures to secure his position in the aftermath of the 1957 party elections. In 1959, he delayed the release of leftist PAP members arrested under the former Labour Front government and appointed five of its leaders,[f] including Lim Chin Siong, as parliamentary secretaries lacking political power.[129][138] Lee clashed further with Lim when the government sought to create a centralised labour union in the first half of 1960.[139] Trouble also arose from former mayor and Minister of National Development Ong Eng Guan, who Lee had appointed in recognition of Ong's contribution to the PAP's electoral win.[139][140] Ong's relocation of his ministry to his Hong Lim stronghold and continued castigation of the British and civil servants was regarded by his colleagues as disruptive and Lee removed several portfolios from Ong's purview in February 1960.[141][140]

引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Lee_Kuan_Yew#Prime_Minister,_Republic_of_Singapore_(1965–1990)

この危機に対してリー・クアンユーいつも休みに家族と過ごしたキャメロン高原の静かな環境で講話シリーズのラジオ音声を録音します。マレー語、北京官語、英語と3つの言語で人々に届くようにしました。CNAのYoutubeチャンネルにて英語版が聞けますが今聞いても心に響くものがあります。この講話では今までどう思ってきて行動してきたのか、マラヤ統合がなぜ大切なのか。ここで共産主義との話もとても深く語られています。

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後にストレートタイムズの編集長になったチョンイップセンは感銘を受けたと語っています。

これに対抗するように、リムチンシオンも12回の講話を放送して共産主義者に訴えかけます。

PAP党内の分裂、マラヤ、イギリスとの外交、またイギリス同盟国のインドやアフリカ諸国などとの外交を重ね、絶妙なバランスや時の流れを活用しながらリー・クアンユーは支持を集めていきました。

最終的にマレーシアはリー・クアンユーの提案するシンガポール市民のマラヤ連合での権利主張に合意することができず、シンガポール華人勢力の台頭を恐れてマレー人によるマレーシアの設立、つまりはシンガポールとの分離を決定します。

感想

近年最も成功した国であり、シンガポールにある大学はアジアでもトップレベルにあり優秀な人材が集まる都市としての地位を確立したシンガポールの歴史を知れる本でした。

本書を読んで大きな学びとなったのは①言葉の重要性、②その時々の潮流に柔軟に居ること、③どこからも学ぶ姿勢、④正しい視点の身につけ方、に思います。

①言葉の重要性:

リー・クアンユーは英語を話す両親のもとで育ち祖父とはマレー語に中国語が少し混ざる程度、漁師の子供である近所の友達とはマレー語と福建語という環境で育ちました。中国語は選挙活動する前までは十分で無かったようで、日本統治時代には中国語で通達がされるために中国語の本を買って生き延びるための勉強を行ったと言います。また、日本語も勉強し軍の中では英語の情報収集要因として働き、生きていくために日本語を活用しました。

政党時代には英語だけでは華人中心の市民に対して考えが届かず、共産主義者たちが中国話者を虜にしていたために中国語の重要性に気付かされます。外交に関してもマラヤのラーマンとはマレー語で対話し、また英語でイギリスなど諸外国の関係者と対話できたために利があったこともしばしば振り返られています。

②柔軟性:

リー・クアンユーは戦前にはラッフルズ学院に入り学業でも優秀な成績であった中戦争に巻き込まれて日本統治時代には柔軟に闇市で価値のあるものを見つけてはお金に困らないように懸命に働きました。PAP時代には共産主義勢力と協力し政権を獲得した後に共産主義の限界も認識しその勢力と決別します。根底には市民のためという意識があり良くするためには何をすべきかをその時々で考え抜き柔軟に対応していきました。

③どこからでも学ぶ姿勢:

下巻の方でもありましたが国を作るにあたり各国の成功事例を勉強してはシンガポール方式に応用して活用していました。日本統治時代には日本軍の理不尽を感じながらもその規律やどこまでも真面目が上の醜い仕打ちなどを通じての学び、共産主義勢力がどのように支持を得ているのかの背景を理解した上で、教育を行き届かせる必要性などは共産主義の主張から学び政党表明に反映するなどしました。

また外交で訪れた数々の国から政権と市民との格差を感じとるなど、何が良い社会であるのかなどを徹底的に考え良くなる努力は汚職を排除するシステムを生み出しました。

④正しい視点

祖父からのイギリス賛美を聞かされていた中で、その英国軍を打ち負かしてきた日本軍の凄み。ロンドンでの生活を通じてのイギリス人の良い所悪い所など混乱の世で何が良いかを非常に緻密に分析している考えが細かに書かれています。すべての経験を糧にしている姿勢はとても勉強になりました。

上下巻共に400頁以上ある非常に読み応えのある本でした。シンガポールの若い世代にそのように国が成り立ち今があるのか伝えるためにとても良い本であり、さらに日本人にとってもとても勉強になる点が多い内容ではないでしょうか。

現在絶版でありあまりに高価になってしまっていますが、多くの人に行き届いて欲しい本だと思います。

📚 Relating Books | 関連本・Web

  1. https://amzn.to/3RtkzVw ラーマン回想録 (東南アジアブックス―マレーシアの社会) 単行本 – 1987/10/1 トゥンク・アブドゥル ラーマン・プトラ (著), 鍋島 公子 (翻訳), 小野沢 純 (翻訳)