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リー・クアンユー回顧録 下: ザ・シンガポール・ストーリー | リー クアンユー (著), 小牧 利寿 (翻訳) | 2023年書評99

シンガポール旅行を予定しているためにシンガポール建国の父リークアンユーの本を読みました。

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中田さんもYoutubeで取り上げています。

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図書館で借りたのですが下から読むことになって動画の内容と比べて見ましたが本を読んだほうが細かい事象の事も分かるのでおすすめでした。本は購入するのは難しくメルカリなどの定価もかなり高くなっているので近くの図書館などで借りるのがおすすめです。

本書はリークアンユーが過ごしてきた戦時下から戦後のシンガポールの独立、近代化までの歴史を鮮明に記録し、シンガポールの若い世代に伝えたいという思いで書き記したものです。

繰り返しの内容や細かい内容も含むために上下それぞれが500頁以上という厚みのある本になるのですが、こういった変革の時期に何を思っていたのか、また外交をする中でそれぞれの国のリーダーがリークアンユーの目にどう映っていたのかがビビットに記されています。

誰かの視点で歴史をしっかりと記してあるという事が興味深いのですが、その視点や思考、配慮などがどれも素晴らしいものであり、シンガポールの友達に聞いてみるととても先見の明があるどの世代にも尊敬されている人だと言っており評判も良かったようです。

建国からつい最近までシンガポールをある意味支配し独裁と言われている側面がありますが、腐敗せずに成長を続けた結果を見ると独裁性である方がうまくいく時は良いのだと感じます。

📒 Summary + Notes | まとめノート

国防について

下巻の最初のストーリーは軍事政策の話になります。リークアンユーが42歳の時に1965年にシンガポールはマレーシアから独立します。シンガポールは英国が作り上げた都市国家であり、英国の植民地として海洋貿易の中継地点として発展していました。

シンガポールについて

本書に度々書かれていますがそこから日本が占領しシンガポール人にトラウマになるほどの残虐な行為をしたと言います。英国の占領下から日本の支配下になり地獄のような日々を過ごしたリークアンユーは独立する際にはイギリス軍が撤退するという事に併せて自国で守れるように軍の整備をしました。

ゴーケンスイを中心として軍をゼロから設計しリークアンユーのアドバイスを元にイスラエルから学びながら軍を整備していきます。シンガポールには多くアラブ人が居るためにイスラエルと協力していると知られるとアラブ系住人から印象が悪くなるということで日に焼けていたイスラエル兵をメキシコ人と読んでいたそうです。

イスラエル人の教育が素晴らしく、最初からシンガポール人の将校が中心になれるように学んだシンガポール人が教官となり教えていく役割を持ち、実際に送り込まれたイスラエル人は少人数でかつ、下士官のみだったそうです。英国軍は服従を元に指導したそうですが、イスラエス人が軍事技術や動機づけを重視したようでシンガポール軍との共同作業はすぐに波に乗り整備されていきます。

この見返りとしてイスラエルシンガポールに大使館の設置を求めたそうですが、アラブ人からの反感を気にしてタイミングを見計らい時期を見送っていたと言います。

67年にはイスラエルが六日戦争を行っておりその行方をヒヤヒヤしながらリークアンユーは見守っていたそうで、イスラエルが実質勝利したことでほっとしたそうです。

軍を整備していく間も英軍の撤退が議論され続けており、リークアンユーは英軍の抑止力を大事と考えており様々な場で引き止め工作をしていました。ただし71年にスエズ以東から撤退するという意思が決められそこに問題が無いよう軍の整備を進行します。

当時イギリス軍が滞在しているからシンガポールの経済が成り立っているのだという話も多く、GDPの約20%が生み出されていました。シンガポールから英軍が撤退したらたちまち崩壊するというメディアもあったようです。

経済の発展のための工業化

軍の整備もそうですが、国として独立するということは経済を安定しなければいけません。本書でも度々書かれていますが、当時は冷戦や中国の共産党政治から共産主義が世界を塗り替えていくという状態で東南アジアでも同様でした。観光で経済を安定させようと考えマーライオンを設定したりしましたが、工業化による発展しかないという結論に落ち着きそのための施策を開始します。

当初はかなり失敗も多く、ジュロン工業地帯を多額の資金で整備したものの空っぽのままであり、水不足も度々あり、海浜の汚染も激しく、造船所も作ったもののタンカー3隻のみで製造が中止。

一時期は英国の援助を多額申し出てしのぐものの、国民に援助依存の精神が蔓延することは避けなければならないとし自立を促します。英軍の撤退に伴い空いた土地を経済活用し様々な投資も海外から呼び込む事に成功し始めます。

海外からの投資を呼び込むためにも魅力的な土地であり、安定した生活を送れなければいけないということで海外にも引けを取らない生活水準ができるように整備していきます。また、当時の企業の海外進出というと第三世界で安価な労働力を使い原材料を収奪するという世界観が多く、この手の新植民地主義的な海外進出が多かった一方でシンガポールは資源も無い土地で安価な労働力をフルに活用した投資先にはなり得ませんでした。

シンガポールEBDを61年に設立し、海外投資家がコンタクトできる窓口として、一括で土地、電力、水、環境、労働安全などの問題を解決する期間を設置します。

 

ホンスイセンEBDの初代長官となり、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの大学から帰国した最優秀の若手人材から構成されました。EBDは代表事務所をニューヨーク、サンフランシスコ、香港、ロンドン、フランクフルト、チューリッヒなどに置き製造業者がシンガポールに来るための橋渡しを実行していきます。当時はアメリカ人にシンガポールと言ってもどこにあるか分からず地球儀でマレー半島の先端を指さして教えるなんてこともザラで、50社ほど回ってやっと一社が興味を持つレベルでした。

これらのハブを拠点にして徐々に海外企業がどういった価値観や視点を持っているのか需要を認識していき、会計上のインセンティブなども配慮していきます。この動きの初頭にあった企業がテキサス・インスツルメンツやナショナルセミコンダクターであり、調査団が訪問して、決定を下してからわずか50日後には生産をしていたと言います。

EDBはカウボーイと定住者というように長く居座る企業はどういったものかを考えHPもシンガポールにとどまり共生関係を維持していきました。

当時日本企業は海外進出先で販売経路も考慮していたため、シンガポールのように市場規模の小さい土地には興味を示さずに欧米企業が多く進出しました。

金融センターとして

工業として安定してきた一方でもう一つテーマとしてあったものが金融センターとしての役割です。バンクオブアメリカシンガポール視点副社長のヴァンオエーネンとアルバートウィンセミウス博士はある時金融はチューリッヒから始まりロンドン、ニューヨーク、サンフランシスコと移動し、サンフランシスコが閉じるとスイスが空くまで資金の動きが閉じてしまうために、その中間に金融市場があれば24時間稼働する金融市場が形成されるという会話をしていました。

オエーネンはこれを論文にまとめ、論文を読んだスイセンリークアンユーと会話をしてシンガポールでの金融セクターの構想が生まれます。様々な努力や68年から85年までの呼び込み時期には非居住者の預金利子収入に対する源泉徴収税を撤廃することなどで資金を呼び込み90年代までに世界の主要金融セクターまで成長します。

中央厚生年金基金(CPF)の設置などは国家予算の蓄えを長期的な投資に役立てたり、多くの国が経済危機に陥る時期にも自国通貨を蝕んで対応する必要が無いように安定した金融市場として確立されていきました。

共産主義の自滅

当時猛威を振るっていた共産主義の広がりはシンガポールにも影響をもたらしていました。共産主義共同戦線のリーダーであったリムチンシオンは一斉検挙で摘発されチャンギ刑務所に勾留されていました。リムは敗北の苦悩で精神的に混乱し刑務所では自殺を試みるなど病んでいる状態にありました。62年にマレーシア合併を問う国民選挙で共産主義者は敗北し、63年の選挙でも敗北。当時33%の得票率で第二党となりましたが、戦闘を街へ持ち込むなど発表し、北京ラジオから聞きかじった中国文化大革命の狂気を真似し、紅衛兵が中国の街を占拠したようにホーカーや夜店などでデモを実施した暴力行為を行ったことで有罪判決を受けるなどします。

共産主義者はしぶとく人数が減っても地下で活動することを意識しなければいけませんでした。リムはその一人で後に夢破れたあとにリークアンユーと面会しロンドンへの留学を懇願しリークアンユーは彼の幸運を祈り送り出しました。

80年代にはソビエトが崩壊し中国も共産主義を捨てる結果となります。

政治戦線においてリークアンユーは様々な誹謗中傷に合いましたが、法定での争いなど起訴することで対応します。しっかりと反論することで、選挙ごとに中傷を世に出してくる戦いに対応します。そうすることで中間層の票の獲得を得て信頼を勝ち取っていきました。

人材育成

1983年の演説でリークアンユーは「大結婚論争」と呼ばれる問題とも取れる演説をします。大卒男性が自分と同じ優秀な子がほしいなら教育レベルの低い女性を妻に選ぶのは愚かなことであると発言。ある時の国勢調査の分析レポートで優秀な女性が結婚をせずに子孫を残さない事を示していました。女性大卒者は当時多く、男性は同程度の教育を受けた女性と結婚しない傾向にありました(38%)。ミネソタ大学のレポートを引用しながら、人格形成の80%は天性のもの、20%は教育の結果であるということや、子どもたちの能力は両親の能力の中間程度にありするために、大卒男性に同程度の教育レベルの女性と結婚するように促し、大卒女性には2人以上子どもを持つことを奨励しました。

未婚の大卒女性を救済するために、社交クラブを組織して国立シンガポール大学のアイリーンアウ博士を責任者と任命して縁結びの場を整備していきます。

また、結婚した女性に所得税の特別優遇措置を設定し3人以上の子どもの出産を奨励する優遇措置を行い出生率が改善されていきました。低学歴の女性は所得税を払っていないことが多かったために、それ以外の所得納税者にとって払い戻しは歓迎すべきことであり幸い非難も少なかったようです。

シンガポールでは人材こそもっとも価値のある資産として国家レベルとして人材育成に取り組みました。

多民族国家

シンガポール公用語が4つある国で知られていますが、リークアンユーは世界的に発展するためには自身の教育背景もあり英語の重要性を確信していました。一方で中華系の教育も当時シンガポールではトップレベルにあり南洋大学など中国語で行う大学も存在します。

英語を唯一の共通言語にしようと考えていましたが、その反対の声は大きく、国民の拒否反応が無いように英語への接点を持つ教育が望まれました。

ある時南洋大学は就職難に陥り、中国語、中国文化にて学んできた人材の価値が下がっている事が問題になり始めます。就職戦線で人材価値が下がっていると判断されるのは、シンガポールを代表する大学として問題であり、多くの政治家に南洋大学出身者もいた事もあり母校の凋落はプライドにも響きます。

そこで南洋大学の授業をある時英語に切り替えることを決め、ロンドン大学で工学を学んだリーチャウメン博士を英語大学へ転換する責任者として送り込みます。中国語で授業をしていた先生や中国語で教育を受けてきた生徒に取って簡単なことではなく、78年ごろから英語化していった大学は混乱しており、最終的にはシンガポール大学との統合へと動きます。南洋大学の学生は就職戦線での市場価値が下がっているためにシンガポール大学の卒業証書はその不利益を回避する手段となり、シンガポール大学の卒業証書を求める学生が多数であったこともあり、キャンパスを統合し授業を英語化していき、現在のシンガポール国立大学(NUS)が設立されました。

それに伴い、中国語で授業を行っていた大学以下の学校にも英語授業の転換を要請し中国語を第2言語とします。一方で中国文化の利点も理解しており、3人の子どもはすべて中国語校で教育を受けて家庭では英語、授業は中国語という環境に身を置かせました。

また、毎年一ヶ月「標準中国語を話そう運動」を行い、中国語の重要性を強調。福建語での演説も行い演説が盛り上がるのを見ると地方語が真の母語である人々が多いという認識もありました。

本書では外交の話が多く書かれていますが、リークアンユーは英語、中国語、マレー語も話せるために通訳をなしに話すことで打ち解けられる事ができた機会が多いということも書いてありました。

各民族の文化に配慮しながらも英語を使う事で人材が国際レベルで移動や企業誘致のハードルが無いようにという言語政策は短期的には多くの混乱を生み出したとは思いますが、今のシンガポールの成功を見る限り効果的な政策の一つであったことは明らかに思います。

クリーンな政府・緑の街

当時の東南アジア諸国で蔓延していたのは行政や社会システム含め賄賂でした。運び込まれた病院ではわいろを渡すと早く治療される、空港ではわいろがあるとスムーズに入国できるなどは当たり前。リークアンユーはこのような事があると国として信頼されないために排除を試みます。

リークアンユー所属のPAPは白いシャツと白いスラックスというイメージ戦略や、59年の政権についたときから収入を1ドルから報告し途中で流用せず国民に還元することを確約します。

多額のわいろ収受事件を摘発し、わいろを取りしまり犯罪として示すことも厳しく実施していきます。

中国やベトナムなどの共産主義刻では裕福になるためならなにをしてでもという姿勢で賄賂や不正が蔓延しており資本主義社会よりも後退していることも浮き彫りになりました。

選挙のために多額の資金が必要になることも当時は多く、日本の選挙システムは顕著でした。投票社への心付けとされるような行為は禁止しシンガポールの選挙では資金に頼る事を辞めます。清廉潔白なシステムと金のかからない選挙により誠実な政府を維持するように努力します。

また、優秀な人材が政治の場に進むように政府機関の収入が経営者や弁護士に並ぶように政治家の給与を魅力的なものにもしました。

まちづくりも同様に清潔で気持ちが良いまちづくりを実施します。痰吐き文化が中華圏では残っておりシンガポールでは痰吐き文化が残っていましたが60年代には痰吐き禁止キャンペーンを実施し、つばを吐くことで結核などの感染の原因になると訴えます。

ホーカーと呼ばれる屋台地域には水整備やゴミ捨て場を完備させて清潔にし、また町中の草を餌としていた牛や羊飼いに街なかへの家畜持ち込みを禁止、見つけたものは食肉にして寄付するという事も行いました。オーストラリアの植物専門家を招き、街なかをニュージーランドアイルランドのように緑が多い街にするために土壌を改善し黄色だった草は緑へと変化しました。

汚水や給水のシステムも改良し河川の浄化も実施。工業地域の真ん中の野鳥センターを設け、各工場に樹木設置を要請していき次第に街は緑の街として生まれ変わります。

一方変化が激しい街の景色に過去を忘れてしまう変化が懸念されたころには、保存活動も実施しラッフルズホテルなどの修復には個人的に干渉もします。

シンガポールの公共住宅というシステムは狭い土地に安心して暮らせる住居を持つ権利を住民に配備する試みでした。小さな漁村であったシンガポールを近代国家にするためには各家庭の住居配分が必要になりました。そこで高層住宅の設置を開始し、そこでは各民族が均等に住めるように高層住宅の移住を抽選性にして民族が交わるような配慮をします。

民族同士固まって生活することで安心感はあるものの民族暴動などの再発を防ぐために、マレー系住民の居住地に高層住宅を配備して人々が高水準の環境で住めるようにしました。(ゲイランセライ)

各民族を代表する議員が国会に存続できるように、選挙システムの問題も随時変更し、少数になるマレー系やインド系の立候補者が華人立候補者に対して不利にならないようにもします。教育ではマレー系民族が情緒的な学問には優れたものの化学や数学で低い点数を取っていたことなどからマレー系民族の教育改革を行い、コミュニティのリーダーにコンタクトして、大学への進学率も向上しました。

周辺諸国との外交

この本でとても面白い部分の一つに周辺東南アジア諸国や中国、日本との外交の話です。リー・クアンユーはマレー語、中国語、英語など語学に堪能であるために通訳を通じない直接の会話ができました。また事前に対話する人について勉強している準備をする人でもありました。

インドネシアスカルノと話した際には「指導される民主主義」を力説されましたが、事前に演説で何回も聞いたことのある話であり、実質的にはほとんど意味のない会話にがっかりしたと書かれています。インドネシアはオランダ統治時代に行政官や専門家を殆ど要請しておらず、日本統治時代に破壊されてしまい大戦後にインドネシアの民主主義とオランダの戦闘が続き中々整備が進まなかったそうです。

ベトナム共産党書記長のドムオイがシンガポールに訪問した93年にはドムオイがシンガポールの発展に驚き、訪問前にはリー・クアンユーの演説集ベトナム語翻訳版をくまなく読みコピーを党の要人に配ったと言います。深夜に寝て3時には目を覚まし仕事を始める7時半までは読書に当てていたそうです。ベトナム語の本は版権などという概念もなく勝手に訳されていたというのも時代だなと思います。ドムオイがベトナムの歴史を語る時は本当に悔しそうであり、中国との戦いからフランスとの圧制。独立戦争でフランスを撃破した後に中国がその隙に北ベトナムを支配。日本軍の占領下ではコメの代わりにジュートを植えることが強制されて飢餓に陥る。日本人と戦い、フランス人、アメリカ人、そしてさらにはカンボジアポル・ポト派と戦わなければいけなかったためリー・クアンユーは同情しないわけにはいかなかったそうです。

アフリカのガーナとの外交時にはクワメ・エンクルマ大統領と会談し、クーデターで危うく殺されそうになった話や、優秀な若手が数年後にはカリフォルニアの僧院になってしまうという状況に復興への道のりの長さを想像するよりありませんでした。

アメリカのジミー・カーターと合った際には「なぜベストを尽くさない?」という自著を渡され、「私の親友、リー・クアンユーへ。ジミー・カーター」と書かれており、会う前から親友にまで持ち上げられたことは驚いたと言います。これがジミー・カーターの選挙運動での常套手段なのだろうと渡された本をしっかり読み切ります。ジミー・カーターのアジア製作はイラン皇帝の亡命を進める件などに集約されており、結局はアジア政策はおろそかにされていおり人間性については善良で信心深い人であったが大統領には善良すぎたかもしれないともコメントされている。

アメリカがアジアへもたらした影響にも触れられており、東アジアの平和と安定を脅かす場面に立ち向かい、日本の再建を援助と投資で手助けし、韓国と台湾の工業化を可能にしました。ベトナム戦争では共産勢力の拡大を阻止して、在ベトナム米軍の後方支援としてアメリカ企業は東南アジアに整備施設を建設しさらには戦争とは関係ない工場も建設し、製品をアメリカに輸出した。これらがシンガポールなど東南アジアの工業化の引き金となりました。アメリカの寛容精神は与えても与えてもまだ与えるという生来の楽観主義から生まれ育てっていました。80年代後半からは貿易赤字財政赤字のためにこの精神はしぼんでいき、アメリカ製品の輸入拡大、知的所有権への支払いを要求するようになりました。

日本の奇跡

本書でリー・クアンユーは日本についても海外からの視点として面白く書かれています。第2次世界対戦前は丁寧で定義正しい日本人というイメージでシンガポール占領下での残虐行為はまったく想定外であったようです。日本人の信じられないほど残虐で、軍部の蛮行に無感覚になっていたことに驚き、三年間版の間貧窮と恐怖の中で生活を余儀なくされ、戦争捕虜、多くの兵士が過酷な労働で衰弱し死んで行きました。戦犯は一部死刑となったものの、多くはほどなく復権して、この人々が作った日本は、平和的で非軍事的ではあるが、決して本気で悔い改め謝罪しない国であったち書かれています。

初めて訪問した62年、帝国ホテルに宿泊し東京の古い町並みに感動し経済復興の明らかな兆しを見ました。そのときに会談した池田首相はシンガポールで起こったことに対して「心からの遺憾の意」を表明したが、謝罪はなかった。首相も側近たちも実に丁寧で、なんとかこの問題を解決しようとしていたが、被害を受けた他国から補償要求が殺到することを恐れて先例を作るのをためらっていたようにみえたようです。

印象的であったのは、西ドイツの政治指導者は明確に戦争犯罪を認めて謝罪し、犠牲者に賠償を支払い、若い世代に戦争犯罪の歴史を教えて再発を防ぐ努力を行ったが、日本の指導者にはなかったとの言及です。多くはいまだに曖昧な態度で言を左右にしている。理由のいかんを問わず、歴代の自民党政権は日本の過去と向き合うことはなかったというのは日本国民としてハッとさせられるストレートな言葉でした。その後どの首相も言葉を変え遺憾の意を示したがはっきりとした謝罪はなかった。遺憾の意は主観的な感情を示しているだけのことであって、悪いことを認めるという謝罪とは意味が異なることである、とリー・クアンユーは言いました。

ただし、リー・クアンユーは日本によるシンガポールへの工場設置や投資、工場内での教育について多く尊敬する内容を書いています。英国の工場では幹部社員は現場に出ずスーツを来て過ごしところ、日本の幹部役員は作業着を着て、油まみれ、汚れた場内を隅々まで知り尽くしていました。

リー・クアンユーオイルショックから1年後の日本を訪れた際に、政府主導で省エネ品に対する税制優遇など実施されておりシンガポールでも行える範囲で実行します。日本人会社員という精神も理解しており、ジュロン製造所で働く社員が重要なコスト計算を間違えて利益を落としたことから自殺したのを知り、シンガポール人ならこんな形で個人の責任を感じることはありえないだろうと記しています。日本人の持つ優れたシステムや仕組みでシンガポールが取り入れられるものがないかどうか、私は常にそのような目で日本を見ていた気がする。多くの優れた日本人を見てきたというリー・クアンユーの言葉は興味深いものでした。

中国について

これまた面白かった部分が中国についてです。中国の文化大革命が最高潮に達した頃、シンガポール内でも毛沢東思想と印刷した大量の中国切手を欧州して共産主義流入に困惑していました。中国出身者たちは文化大革命のパンフレットや印刷物を持ち込み、規制を実行するとアンダーグラウンドで広まります。

シンガポールと中国は直接批判されるような悪い関係にありましたが、次第に関係性も落ち着きリー・クアンユーが初めて中国へ訪れることになりました。そこであった毛沢東はすでにはっきりしない口ぶり中年の女性が彼の言葉をきれいに繰り返していました。すでに衰老しておりニクソンキッシンジャーと会談したことの様子はなく理路整然と話すことすら困難になっていたそうです。人民日報に二人で居た写真を掲載されましたがその様子は直接みたものよりもよりよい状態に見えた(加工されていたよう)。会談の後に他の地方へ移動するための列車には大きなバスタブがついており、地方では毛沢東が神のように語られて、外国要人訪問時にのみ地方に居る共産主義幹部はワインを嗜む事ができました。服装は皆同じで機械のように同じ内容を皆が語るのを異様に感じていました。外部から遮断された人々は徹底的に決められた返事をするように叩き込まれていました。この現状を見てシンガポール人が中国へ訪問する年齢制限を設けていましたが、共産主義に夢を見た人たちもこの現状を見ればシンガポールの良さを再認識するとし年齢制限を撤廃。

その後鄧小平に移行した体制は大きく変化していき、鄧小平はリー・クアンユーから多くを学びました。天安門事件についても詳細にかかれており軍が住民に向けて攻撃をしたことは衝撃を与えました。

感想

リー・クアンユーは政治のシステムが立派であっても優秀な指導者がいないと政権が失敗に終わる事を多く見てきました。現にシンガポールほど成功した国は中々無いと言えます。自身が英国から多くの影響を受けたことから、優秀な人材、海外で勉強をした人材など多く政権に参加させ、後継者の育成にも力を入れてきました。

このブログの文章を書き始めて途中でシンガポール旅行に行き、リー・クアンユーの生誕100周年の展示などを見てきたり、シンガポールの友達にリー・クアンユーのことについて聞きましたが広く尊敬されていました。

シンガポールの団地もリー・クアンユーの本に書いてあったようにどれも同じにならないようにそれぞれデザインにこだわられており、また緑も非常に多く街づくりのうまさを感じます。

日本への言及もかなり多く一国の長がどうやって日本を見ていたのか、かなり事細かに書かれております。一方で日本が東南アジア圏でどれほど残虐な行為を戦時中行っていたのか、ほぼ初めて知ることになったのでその点読むのが苦しいときもありましたが現地で置きていた事をしっかりと知ることは重要ではないでしょうか。

上巻も読みたいと思います。