今年は祖母が他界して人の最後について考える時間が長くありました。印象的であったのは祖父が亡くなってからある程度の年数は元気にしていたのですが、体力の衰退とともに早く死にたいなというつぶやきが多くなり、また老人ホームに入ってからはシャイな性格もあり気苦労もあったようです。
最近終末医療が話題になっており、最後病院のベッドの上で数年過ごして死ぬというイベントがある種当たり前化してきています。本書ではそんな人生一回きりの死というイベントに対して医者からの視点でどう準備しておくべきなのか、どういった選択肢があるのか、という事を教えてくれるものになります。
著者の久坂部さんのスタンスもあるのでそれも加味しながら読むといいとは思いますが、医者として多くの人の看取りをしてきており、かつ他国での終末医療の経験や価値観もあるとのことです。日本的な考え方、死について準備するという点でとても良い本ではないかと思いました。
📒 Summary + Notes | まとめノート
死とは一度切りのイベント
人生で死ぬのは誰しも起こり得るのですが、一度死ぬと生き返られないため死は一度きりのイベントになります。練習もやり直しもできないこのイベントに対して、多くの人々が最後は人工呼吸器や透析機に繋がれて最後の時を迎えております。
多くの患者の看取りを行ってきた医者の視点から、この一度きりのイベントに備えて他の人の例を参考にして、死が病院の中で隠れてしまっている現代社会で、一度考えてみるのはよい機会でしょう。
死のパターン
若手医者時代の著者は看取りをしてこそ医者というような若手医者の登竜門的な機会を同僚と噂をしながら立会の時を待ちます。死には3つのパターンがあります。
- 生物学上の死
- 手続き上の死
- 法律上の死
生物学上の死が医師が確認した時点で死亡とされ、死の三徴候(呼吸停止、心停止、瞳孔の散大)を確認して死亡時刻を記録します。
心臓は生きており、ドナーは死んでいるというような脳死の概念ができ、脳死は死と判断され心臓を取り出しても殺人には当たらないという考えもあります。
医学の進歩とともに死を押し止める事も可能になってきました。延命治療と呼ばれる状態ができます。とても難しいのは延命治療と呼ばれる状態になる直前に病院へ行き治療を受ける事で回復し自宅に戻る人も居れば、そのまま入院し人工呼吸器で補助される状態になる人もいるために、延命治療を否定する事で自宅復帰の機会を失う可能性もあります。
紹介されているケースにがん治療において手術を行わず、軽めの抗生物質で2、3年の余生を選ぶ患者さんが居たようですが、ある朝突然吐血したために救急車を呼び集中治療室へと運ばれ入院となる事もあり、延命治療を否定するのは自由ですがそこには強い意思が必要になります。
さらに難しいのは集中治療室で一命をとりとめた後に輸血はあと3パックまで(つまりは見込みなしと判断された)となり死が近いと思われたところ回復し自宅へ戻り半年ほど生きて孫の誕生を見た後に他界しました。
海外での死
著者はがんの終末医療に取り組んでいたところたまたま日本医事新報にある求人を発見し外務省が医務官を募集しているということで応募します。そこでサウジアラビアでの勤務が始まり、そこで海外の終末医療の情報を得ます。
サウジアラビアでもがんの末期患者の治療には苦慮しているということで、日本と同じく医療の発展と共に生まれる困難に直面していたのですが、がんの治療はある時点を超えたら何もしないほうがよい状況になったときには「死を恐れるな。アッラーが永遠の魂を保証してくれる」と声をかけると死を受け入れる方もいるようで、国や宗教の違いによる死生観の違いを目の当たりにします。
イエメンを担当した際には、思いがけずに亡くなった親族はその日のうちに埋葬され、日本とは違いすぐに埋葬するという文化がありました。
ウィーンでは博物館に死の肖像展が開催されており、街全体が死を拒んていない雰囲気があったといいます。死にまつわる場所が散見されており死がタブーとされていない雰囲気があったようです。その影響からか、がんの発見があった時の対応も日本とは異なりしっかりと説明し、ありのままを受け入れる価値観がありました。日本では患者に対しての説明は感情的な判断を重視して拒まれるケースもありますが、事実を告げるウィーンでの姿勢は非常に合理的です。
その後パプアニューギニアに移ると、またそこでは死を受け入れる国民性があり、他国へ行けば高度な医療を受けられる事を認識しているものの、そこには膨大な費用負担があることから、現状を受け入れて治療を受けないという選択もありました。
死の恐怖
人は死ののちに何があるのかわからないために死は恐怖の象徴ともされますが、現代以前は家族の死など家庭で見かける生活の中にありました。医者は死を多く見るためにある意味人の死に慣れていき、無下に恐れたりということは無くなっていったと言います。
死が病院の中での出来事となってしまった現代では一般の人にとって死はますます遠い存在になり得体のしれないものとなりました。
それでは一方は死なないことは良いことでしょうか。火の鳥などで語られているように不死、不老不死は人間たちの永遠の話題です。不老不死が実現すれば文字通り人は死ななくなり地球はますます人で溢れかえり植えの問題もさらに加速するでしょう。
死の恐怖が生み出しているものに健康思考もあります。◯◯を食べて健康になりましたというような会話や広告により成立しているビジネスも多くあります。
著者は医者という立場を通じて死に目に会うことの良し悪しも見ることになります。もちろん最後の死に目に立会穏やかに最後の時を迎えることもあれば、そこから普段の生活がより大事だとの考えも上がりました。最後の時は昏睡状態にあり、そこでいくら愛情を伝えても本人には伝わっていない事が殆です。死ぬ間際に必死に声掛けをするぐらいであれば意思疎通できるうちに言っておくということはもっと認識されても良いことでしょう。
普段の心がまえがあるからこそ、日々を大切に過ごせる喜びがあるのではないでしょうか。
上手な死に方
著者が達人の死だと関心した人に、作家の富士正晴氏が居ます。軍隊経験をしてもっともらしいことや、立派なことを信用せず厳しい視線で世の中を見た方です。生き死に関してのエッセイも多く残されています。歯がかけても入れ歯はせず、食事も食べたいものを食べ酒も飲む。
晩年4年の訪問医療を担当するようになった著者は亡くなる5日前に訪問しましたが、とても元気な状態であったといいます。突然の死に驚きつつ通夜の席に駆けつけると、そこにはウイスキーを持った編集者が居て、先日いっしょに飲もうという約束がありウイスキーを持って来たところ通夜が営まれて驚いたとのようでした。
ピンピンコロリ、寝たまま死ぬということを体現した方でした。
ただ一方で、人は死に方を選べません。自分で死に方が選べるのは自殺のみで、富士氏のようにピンピンコロリの場合であっても突然なので家の整理など何もできていない状態にもあります。
現代の死亡原因の1位はがんであり、がんによる死亡は一つ認識しておいてよい最期ではないでしょうか。著者はこのがんで死ぬことの効用も紹介しています。がんは治療さえしなければある程度余命が分かる病気です。最期に準備をすることもできます。会いたい人に会い、行きたいところに行き、最期にしたいことをする。そんな最期を過ごせるのはがんの効用とも言えるでしょうか。
著者がおすすめする最期の一つに病院に行かないという選択肢があります。現代では7割の人たちが病院で亡くなっているため、私達の感覚には薄いかもしれないですが、自宅で死を迎えるという選択肢も大いにあります。ただし、先述したように自宅で最期を迎えるためには吐血したときも救急車を呼ばないでいるという強い意思や、もしかしたら余命を伸ばせられるという機会を無くす可能性もあるため準備をしていても難しい決断になります。
このような強い意思には普段からの心の準備が必要になります。メメント・モリ(死を想え)という考え方は人は必ず死ぬのだから、今のうちに食べて飲んで、人生を楽しめという意味があります。死ぬことを受け入れるからこそ日常を大切にできるのかもしれません。
精神面で大事なことに、自分の人生に満足し、十分に生きたと漢字、心置きなくこの世からさっていくということがあります。老人力という赤瀬川原平死が書いたエッセイがありますが、そこから著者の父親はゆっかり力、のんびり力、あきらめ力がつき、受け入れる力もついたと言います。
生きているうちに、満足力や感謝力を発揮して毎日を穏やかに、平穏かつ濃厚に生きていたようです。
感想
死というイベントは人が避けられない出来事ですが、死について考える機会は意外に少なく、どこかネガティブにも思われます。「求めよ、さらば与えられん」というように人々は様々な事を求める事で発展してきましたが、人間の仕組み上生命ということに関しては求めるよりも受け入れるという考え方が重要に思います。
今年、青春時代を戦争という混乱の時代に奪われて、その後の貧しい日本から多くの経済発展を遂げた時代を過ごした祖母が亡くなるという事がありました。戦争で亡くなった姉の恋人だった人が先に亡くなった祖父なのですが、個人のちからではどうにもならない、現代では考えられない運命を体験した人です。
古い足踏み式のミシンで服を作り、孫が熱中していた高校野球を見てルールが全くわからないといいつつも一生懸命な姿には感動するという話をしていました。洋式の朝食を好み、農家である他方の祖父母とは大きく異なる生活洋式であり大きなコントラストでした。
帰省ではデジャヴュのように毎年同じ事を語り、愛情深く、仏壇へのお祈りを欠かさない生活をしておりましたが、東日本大震災を機に祖父との思い出の家を離れ、その後数年経ち老人ホームへと移りました。
本書でもあるように死は突然であり自分の意思では選べないものです。また親族の意向によって死に方が変わるということもあるでしょう。穏やかな死と美しく語るよりも、死とはどういうものであるか理解した上で、それ以上どう考えても仕方ないようにも感じます。
自分の死について、また親族の死について考えるきっかけになるとても価値の高い本であるように思いました。
📚 Relating Books | 関連本・Web
- https://ja.wikipedia.org/wiki/富士正晴
- https://amzn.to/47Utvdz 神の手(上) (幻冬舎文庫) Kindle版 久坂部羊 (著)
- https://amzn.to/3N88jbi 善医の罪 (文春文庫) Kindle版 久坂部 羊 (著)
- https://ja.wikipedia.org/wiki/メメント・モリ メメント・モリ
- https://amzn.to/46WQ009 『求めない』 加島祥造 単行本 – 2007/6/29 加島 祥造 (著)