前作の日本軍兵士でも戦争における無惨な死は戦闘そのものよりも空腹によるものやそれによる病気、また軍の劣る設備などが戦闘よりも多くの死を生み出していたことがまとめられていました。
本書の冒頭で夏目漱石の作品に出てくる主人公が語る言葉が書かれています。
日本は西洋から借金でもしなければ、とうてい立ち行かない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、むりにも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行きをけずって、一等国だけの間口を張っちまった。牛と競争する蛙と同じことで、もう君、原が裂けるよ。
本書も改めて、それぞれの戦争対戦での病気や徴兵の緩和による人材の低下、装備の不備などをみていきます。
📒 Summary + Notes | まとめノート
戦病者たち
1874年に始まった日清戦争でも日本軍は病気との戦いでした。24万人の陸軍兵力を動員し、戦病死者は1万1763名、戦闘による死者は1401名。赤痢、マラリア、コレラなど、また軍靴の補給が間に合わなかったために草鞋を履いた兵士も少なくなかった。
1904年からはじまった日露戦争では戦病死者は激減。110万人が動員され、病死者は2万1424名。戦死者は6万31名でした。伝染病や凍死での死亡者は大きく改善されました。
日清戦争での多くの死者の原因では白米食に固執した軍医などにより、経験的にしられていたビタミン不足がありました。
1937年から始まった日中戦争では軍事衛生は再度低下していきます。戦争後半の41年には戦病死者が戦闘での死者とおよそ同じ程度にまで増えていきました。
徴兵について
明治から満州事変までの流れにおいて徴兵制が普及していきます。徴兵に対して村民などは一揆を起こして対抗しましたが抑えられます。徴兵に関わり軍医の裁量権は強く、軍医のはからいで徴兵を免れる人材も多くいました。また高等教育を受けているものには甲種合格判定を避ける傾向にありました。
兵食もビタミンの接種などあり、栄養学の取り込みがされていました。白米は軍隊に入って初めて食べる兵士などもいたため、白米主食は魅力でもあったようです。ただし、腹一杯になれば何でも良いなどの古い体質もありました。以外にも白米主食化が起こったのは1950年代なようです。面白い話に、パンやビスケットを兵食に取り込むようになり、炊飯の手間が避けることで兵士が寝る時間が増えたなどもありました。
パン食は一時期増えてきたものの、戦争の後半には米食への回帰もあったようです。
前著にも虫歯の話は書かれていましたが、戦線では歯医者がとても貴重であり、上海には2,3軒しかないために法外もなく高く、戦友から借りて月給10円時代に15円もの治療費を賄っていました。
日中戦争
起点となったのは泥沼化した日中戦争の時期でした。精神疾患を持つ兵士も増え、還送される精神疾患者は還送者の中で20%ほどにまで増えます。群拡大により生涯を持つ兵士も増えます。戦略といえば人員を顧みない作戦が増え、個人防護装備の不備や初期治療の立ち遅れも目立っていきました。ヘルメットの導入はかなり遅れていたといいます。
石油が禁輸され、ジリ貧となっていくなかで、日中戦争をしながら、ソ連にも対応し、さらには英米戦争にも突入するという国力を無視した戦いとなります。全体の兵力の29%もの人材が満州に釘付けとなり、英米には21%しか配布されませんでした。
戦争後期にはさらに戦争へ投入される人材が増えていき、岩手県が記録している年次別の戦没者は230万名のうち210万名は1944年以降に亡くなったとされています。さらにその6割以上が戦病者でした。
栄養失調は慢性化し、精神疾患の原因にもなります。マラリアは多発し、予防策は精神論に近いものでした。第一項に「蚊に刺されざること」をあげ、入浴などは日没前に行い、夜間には裸体を禁じ、長ズボン、靴下、長袖を着用し、日没後は蚊帳の中に入り、やむを得ず外に出る場合には体を動かし蚊に刺されざること。とあったようです。蚊帳から抜けて便所に行くものには団扇を持って蚊を避けながら用を足す。一方米国はDDTの大量使用により蚊を排除する試みをしていました。
皮膚感染症も多く、洗濯も入浴もできない環境では波と汗でずぶ濡れとなり、夜に寝付けないほどのかゆみに襲われる兵士も居たようです。
人間軽視
今では世界のトヨタとなっていますが、当時は国産車の品質は劣悪であり、また戦況悪化に伴い、後輪のタイヤはシングルに、予備タイヤは積まず、運転室や荷台は木製に、フロントブレーキは廃止し、ヘッドランプは一つ、など改悪されました。石油不足に伴う代替燃料の利用では薪1キロに対して1キロしか車は進まず、1時間走るためには20キロの薪が必要でした。そんな事をしていたら馬に頼らざるを得ず、軍馬への依存は抜けられずじまいでした。
兵士の装備に対して、体重の40%に及ぶ装備をしいるために、機動力は大幅に低下。現場での考えでは体重の3分の1が限界という考えでした。100日間2000キロを超える軍行が行われるなどし、そこでは3000名ほどのうち900名ほどは落伍し、戦病死となりました。兵士は年々体の小さいものが増え60キロを超えるものはみられず、例外なく痩せていたそうです。
陸でも起きていたことは空軍でも同様に起きていました。空軍の戦闘での戦闘機喪失は1944年1月からの5ヶ月間で763機を失い、さらには非戦闘で2393機失っていました。降着装置の堅牢さは低く、未舗装の飛行場での発着、軍用機の劣化などが原因でした。
雨外套も乏しいものであり、着ていても肌にまですぐ雨が染み込みずぶ濡れ。
造船技術にしても、模倣と拡大から抜き出る事ができず独創性のなさを嘆く牧野茂なども居ました。居住性は軽視され、日本の軍艦では戦いに出る頃には体力が無い状態であることも現実であったようです。
一方でアメリカの潜水艦では、快適な条件で過ごす事が重視されており、人間軽視の設計思想が日本軍ではみられていました。(千葉哲夫談)
感想
戦争の話を知れば知るほど、理不尽さに哀しくなり、生まれた時代の違いによってこんなにも違う世界になってしまう事に驚くとともに、個人の力では何もできない世界と頑張る事に意味を持てる世界の違いを実感します。
小さい頃には実感もなかった事ですが、祖父がこのような理不尽ばかりの世界に青年時代を過ごしたからこそしていた振る舞いもあるのだろうと思いますし、妙にマッチョで嫌になるほど将棋で打ち負かされた事を思い出します。親ガチャとか言ってる場合も無ければ、前線に駆り出されたら民家から食べ物を奪わなければ行けないほどに追い込まれ、悪いことと分かっていながらもしないと生きていけないという状況に悲惨さを感じます。
そういった悲しい人生だと気が付きながら、戦うこともできずに寝ずに毎日歩いては憔悴していく世界にも意味を見出していかなければいけない命が沢山あったと思うと、世界がその悲惨な戦いの上に成り立っている事に感謝や祈りをするべきだろうと感じます。
時が経ち、体験者は減っていきいつしか戦争体験者が完全に居なくなる国となるのでしょうが、このようにどこかに記録されていて知ることができる状態である大切さも理解することができます。
本書の最後に、著者が参考にした書籍は靖國偕行文庫、アジア歴史資料センターなどにあるということでその存在も知ることができました。訪れて文献に目を通したいと思います。
