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シンガポール近い昔の話: 1942~1945 日本軍占領下の人びとと暮らし | シンガポール ヘリテージ ソサエティ (編集), リー ギョク ボイ (著), 越田 稜 (翻訳) | 2025年書評95

大日本帝國時代に日本はアジア解放を謳い文句に欧州列強からの解放として東南アジアへ侵攻し植民地化しました。戦争体験から2,3世代立つとともに記憶は風化されていくのですが、リー・クアンユー回顧録しかり国の成り立ちを次世代の人が知ることができる史料を記録するという精神を感じます。

ohtanao.hatenablog.com

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リー・クアンユーも過去に日本の誠実な謝罪の無いことを指摘し、ただしその一方学ぶべき事もある事実をスピーチしました。

We hope that animosities will soon be resolved with a suitable gesture of atonement from the Japanese Government. We cannot altogether forget, nor completely forgive. But we can mute some of the animosities that rankle in so many hearts, first in symbolically putting these souls to rest, and next in having the Japanese express their regret for what took place in a sincere manner.

https://www.nas.gov.sg/archivesonline/speeches/record-details/74356a9f-115d-11e3-83d5-0050568939ad

シンガポールから見る日本の戦争史観は、日本は公式には間違いを認めておらず、各地方、特に対華僑に対する虐殺行為を曖昧に取り扱う姿勢にかなり批判的にあります。なぜそのような対応にしているのか背景も理解したうえで、日本の若者へ向けて記録を翻訳してくれていると思いました。

日本占領時代を生きた人たちはもちろん、私たちのようにそうした経験をしていない世代も含めてみなが現在不安に感じているのは、ひじょうに多くの日本人がこの暗黒面を直視することを避けたり、認めようとしていない点です。現代ドイツは、ナチの犯した数々の人道に対する罪を認め、いまもネオナチの復活を許しません。これに対して日本は、戦時中の残虐行為を覆い隠してきたベールをいまやっと取り始めたばかりです。日本の若者が自らの歴史を知らないとしたら、自国の否定的な側面を直視することなど望むべくもありません。人間である以上、どんな国にも暗い部分があるのです。

📒 Summary + Notes | まとめノート

時代の終焉

1941年、マラヤやシンガポールはイギリスが統治する状況でした。当時イギリスはドイツと戦争状態にあり戦況は重大でありイギリスの全精力をドイツへ対応している状態でした。

シンガポールに居るイギリス人を見ると自国で戦争が起きているという様子は感じられず、パーティーや舞踏会が開かれ、有名なラッフルズ・ホテルロビンソン百貨店には人が溢れていました。

シンガポール人からみても大英帝国プロパガンダはよくできていたため、こんなことが書いてあります。

大英帝国の軍事力に立ち向かうことのできる国がアジアにあるなどというのは、ばかげた考え方であった。イギリス人はつねに、自分たちをアジアやろうより一等頭上の人種だとみなしていたのである。

このマインドは大英帝国側の内部もそのようでありオーストラリア兵は、日本人は爆竹を使って驚かせたり、あまりに粗悪な銃は撃てず、撃てたとしても日本人は近眼であり当てることができない、などという話をしていたそうです。イギリス軍の不敗神話が市民にも軍にも蔓延していました。

1941年、日本軍の南方侵攻のニュースが入ってくると、シンガポールでは慌てて義勇兵が召喚。12月23日は日本軍が空襲。シンガポールでは突然集められた兵士たちの訓練期間もたった5日であるような状況でした。

シンガポールには日本人が住んでおり、準備は周到であったとされ、住んでいた日本人がどこでカメラを撮っていても問題が無かった上に、イギリス軍が無敵ではないことも、日本軍の攻撃想定も海からと思っていることなどもわかっていたのではないかと言います。

当時日中戦争の情報はシンガポールに住む華僑にも伝わっており、募金運動や写真の展示などで中国でどんな残虐行為が行われてきたのか知ることができました。戦える人は中国のために戦おうということで国へ戻り、シンガポールに住み続ける人たちは日本製品不買運動を行いました。1973年の当時は不買運動により日本からシンガポールへの輸出額3分の1になりました。

戦争突入

1941年の11月19日の「ストレーツ・タイムズ」ではインドシナ北部の日本軍が南方してきているというニュースが流れます。日本軍の初めての爆撃は12月8日の早朝であり殆どの人達は大英帝国の軍事力が凄まじいものだと信じていたため全く日本軍の爆撃だと気が付きませんでした。第一回目の爆撃では61人が死亡。

現場までいって爆弾で破壊された建物あ死傷者を見てきた人がいたんで、そこで初めて戦争だってわかったのさ。その瞬間、みんないっせいに飛び出していって、防空壕が作れそうな場所を探し始めたんだ

1月になるとシンガポールは空襲にたびたび襲われます。開戦後わずか10日間で日本軍はシンガポール周辺の制空権と制海権を掌握しました。イギリス空軍の設備は粉々に打ち砕かれたり、使用不能でした。日本軍が空を覆う中、イギリス軍なんてどこにも見えない。日本軍が行ってしまった所でやっとイギリス軍の飛行機が空を飛び回るなんてこともあったようです。

わずか55日前にタイ南部に上陸して以来、我軍の陸路1100キロを猛進撃した。我軍は大小95の戦闘と行い、250以上の橋を修理した。平均すれば毎日2回戦い、4、5本の橋を修理しながら20キロずつ前進したことになる

2月になると日本軍はコーズウェイを挟んで2.1キロのジョホールバルに陣を構え、2月1日に砲撃を開始。2月7日に日本軍近衛師団の精鋭がウビン島を占領。2月8日およそ2万人の兵士がブロー岬とムイ岬のあいだのシンガポール島に上陸。経験に勝る日本軍は2500人のオーストラリア軍に勝ち進みます。経験不足であったイギリス軍部隊は日本軍が危機に陥る際に銃撃を辞めたり、撤退するなどの混乱があったのも事実でした。

イギリスのパーシバルは降伏寸前の際に、フォード工場兵器、山下にどなりつけられ条件交渉をしようとしていましたが降伏を決めました。

エスかノーか、貴官の返事を聞きたい!降伏するのか、それとも戦うのか!

後に山下はシンガポールに対する攻撃ははったりであり、数的には3対1の劣勢でした。もしシンガポールが長期戦を強いられたら負けるだろうということは分かっていた。イギリス軍が、我が軍の数的劣勢や補給の欠如を見破れば、市街戦にひきずりこまれ、損害を被るだろうとずっと危惧していた、と語っています。

中国での戦闘で鍛えられた日本兵と違って、イギリス兵は英連邦各地から寄せ集められてまとまりがなく、戦闘体験も乏しいうえに、優れた指揮官もいなかった。

日本軍はイギリスが多額の金を投じて舗装した道を使い、自転車などで南へと進み、戦闘ごとにイギリス軍が残していった軍需品をたっぷり手に入れることができました。

イギリス降伏後、民衆の共通の話題は「イギリス兵は戦い方を知らない」という点でイギリスが認め難いことでした。

日本時代(1942〜1945)

日本軍は大きな戦闘のあとは2週間ほど、兵士が好き勝手な行動が許されるということで、日本軍が酒を飲んで騒ぎ、家に押し入っては強姦。一家で皆殺しにあうところもありました。

捕虜に加え、様々な国の人たちが鉄道建設に駆り出されます。アジア人労働者の3分の1は二度と家に帰ることができなかったようで、作業中に1万6000人を越える捕虜が死亡しました。完成までに5年はかかると言われていた工事が16ヶ月で終わるなど全員の長時間労働で徹夜労働、道具はつるはしと少しばかりの爆薬のみでした。

日中戦争の影響もあり、不買運動を行っていた中国系の住民があぶり出され粛清が行われます。シンガポールでは5万人亡くなったと言われ、日本側はわずか6000人と見積もられています。18歳から50歳までの中国人男性は尋問集合書へ出頭するように呼ばれ、3日とか5日分の食料を持ってくるように言われます。当時19歳だった住民は6日間待たされ、近所の住民が待っている人たちへ無料で食料を提供しました。チャイナタウンの周りには有刺鉄線が巻かれ、すべての出口では武装兵が守備につき、あやしいと思われたら恣意的に選び出され戻ることはありませんでした。

海岸を歩くと頭蓋後つや骨がすぐに見つかるほど死体に溢れ、日本兵はその辺で見つけた人にシャベルを渡して海辺に連れていかれ死体を埋めさせられるという噂が立ちます。

ボクの友だちの親戚ってのが運のいいやつでね、日本兵がみんなに向かって発泡したんだけど、そいつにだけは弾がそれて当たらなかったんだ。でも、恐ろしさのあまりに気を牛なちゃったんだって。そのときは夕方の6時過ぎで、あたりはもう暗くなってたんだ。だから日本兵は、死体を海へ放り込むのを、次の朝にのばしたのさ。夜の9時か10時ごろになって、波が打ち寄せてきたんで、そいつは正気にかえった。生き残ったのは自分だけだったんだって。で、やっとのことで縛られた両手をほどいて、家まで海ぞいに泳いで帰ったってわけさ。

日本軍は”アジア人のためのアジア”をスローガンにしたものの、民族ごとに対応を変え、各民族社会を自分たちの目的のために利用しました。インドはイギリスからの独立のために協力体制となり、マレー人も恩恵を受けた民族でした。

最初の数ヶ月は法と秩序が乱れ略奪行為が横行しました。また商店では日本兵をあいてにする時には大幅に値引きすることが賢明だということで、値引きを実施。日本軍は秩序回復のために禁止事項をリストアップし、従わざるものは射殺するという警告をします。日本の精神をうえるということで日本兵にはお辞儀をしなければならず、よく分かるように示さなければビンタ、拳骨、殴打を覚悟しなければいけませんでした。

日本軍は徹底的に居住者の登録をし、登録と異なる人数の住人であると罰することをします。実質どこにも出かけられない状態になります。現地の人々がすぐ覚えた言葉は「バカヤロー」でした。日本軍を含め、ケンペイタイには誰もが恐れており、反日分子を根絶やしにしようと粛清が終わったあとも活動を続けていました。

終局の始まり

1943年になると日本が不利の形勢が少しずつ知れ渡ります。日本軍の降伏が知れ渡る前から、醤油工場では機械を撤去して売却を始められ、帰国の準備をするものも多くいました。日本軍が発行するバナナマネーは暴落することを見越した人たちが、日々の生活で未だに紙幣が必要な戦況の理解を指定ない人たちに渡し、紙幣よりもものを確保する人も見られました。

9月5日イギリス軍がシンガポールを占領し、安心するものも居れば、住民の中には「イギリス軍将校の中には横柄な顔をしているのがいて、嫌な気分になりましたよ。戦前に見た、あの傲慢な顔つきでした」と言うものもいました。ただし、日本人捕虜に対してイギリス軍は人権を尊重し、住民たちが罵ることやつばをかけようとすることを認めませんでした。

占領に耐え、捕虜収容所から生還した多くの人々は、心の傷から何ものにも代えがたい教訓を学びとった。生き抜くことを学び、他者をいかすことを学び、強調することを学び、そして人を許すことを学んだ。人生において不可欠なものが何であるかに気づいたのである。 多くの人がかなり前向きであることも分かった。事実、捕虜から市民まで、多くの人が耐え抜けたのは、自信を持っていたことと、楽観的であったことのおかげだ。

エピローグでは、植民地社会の秩序であった、アジアにはアジア人の位置があり、ヨーロッパ人の下位にあるという意識は日本軍の到来とともに幕を閉じました。難攻不落と言われていたシンガポールが一瞬にして崩壊させられたことを見て、有事には自分たちを守ってくれると考えていたイギリスの軍事力に対する住民の信頼はゆらぎました。これは民族意識の高揚へと繋がります。

日本人の掲げた”アジア人のためのアジアアジア”というスローガンによアジア人は植民地支配の現実に目覚めた。どんな新設な主人であっても所詮、アジア人は自国の中ですら2級市民でしかなかった。大仰なスローガンを掲げた日本人にしても結局は、異なった肌の色の、さらに残忍な支配者にほかなかなかった。植民地主義の現実から、人々は自分たちの運命を決するには、より大きな発言権を持たねばならないと強く自覚した

これらにより政党や政治参加、また自治要求が行われていきました。

感想

日本占領下のシンガポール昭南島時代のノンフィクションで記録した本になります。中々耐え難い内容も多く含まれており、また戦争の極限状態とは言え醜い施しを絶え間なく行い恐怖による統治という実態が見えてきます。リー・クアンユーも徹底的な恐怖による統治は凄まじいものであり、彼の政治スタイルはその規律を善の方向に向けたものでした。

少し救われるのは少しばかりは日本人の善い行いや現地の住民に対して一緒に耐えながらも助けたり、解放へ働きかける動きが書かれていることです。

状況を悪くしたことには、日中戦争において双方が双方の民族に対して嫌悪感を持っていたことであり、シンガポールの中には多く重慶にわたり戦闘に参加したものもいたようです。この怒りは80年経ってもまだ軋轢を残している事、そして多くの人々にドイツと違って日本は正式に謝罪も無いと言うことは日本人的な忘れるまで行動しないでおこうという思想が見えます。

シンガポールには戦争の4年間、わずか4年を大きな記録として未来にも残そうという試みが行われ、本や博物館の展示など行われています。シンガポール訪問時にはそういった場所にも訪れ、できれば本屋などでCHOP SUEYのような戦争本も少し探してみたいと思います。

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  2. https://amzn.to/4gGoGtw 華僑虐殺: 日本軍支配下マレー半島 単行本 – 1992/5/1 林 博史 (著)
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